ただのdiary

自分らしく、自分の人生を歩むための私の日記

People in Tokyo〜私の悩み聞いてくれますか?〜

東京の夜は長い。平日でも関係なく夜は眠らず、立派な大人たちが何かを求めにbarやclubに足を運ぶ。人生・恋愛・仕事、それぞれがそれぞれの悩みや不安を抱え、ただひたすら喋る人もいれば、だたタバコを片手に無言という肴をつまむ人もいる。同じ空間でこれだけのコントラストがあるのは、東京のbarぐらいではないかと思う。

昨日がそのBarの初出勤日だったが、今この交錯する思いを徒然なるままに書こうと思う。私は昔からカーストが気になる子供だった。誰かに負けるのが嫌いだったし、自分より優れている子を素直に認められずに、恨むこともあった。下に見られているという感覚がこの世で一番嫌いで、その感情を払拭するために、当時の自分が思いつくことは何でもやった。もちろん、勉強もスポーツも自分の限界まで努力したし、成長すればファッションにだって本気で取り組んだ。ただ、小さい時はその浅はかな感情から、相手へのライバル心を自分の成長の糧とするのではなく、他人を攻撃することで優越感を感じてしまうこともあった。だから、今大人になって自分のステータスを武器に相手に対して存外な態度を取る人間を見てしまうと、非常に残念な気持ちになる。全ての関係性が公平なジャッジのもと判断されることを願う。ただ、人間はきっとそんなに綺麗な動物ではなく、感情や私情という人間をただの動物たらしめない性質が、人間の面白さにさらに磨きをかけているのだとも思う。

なぜ、急にこの話になったかというと、私が仙台から東京に職場が変わり、会社員からアルバイトに職業が変わったからだと思う。やっぱり仙台から見る東京は広くて大きくて深いし、会社員だったらきっと見れない世界が目の前には広がっていたし、私という存在の小ささを痛感した瞬間だった。知らない街に行くと本当に自分が小さく感じる。自分の存在が小さいと感じている時に、相手から存外な態度を取られると感情の矛先が相手に向いてしまう。「名前は?」「年齢は?」「何か歌ってよ」と、まるでサーバントのような扱いをされたと感じる瞬間は本当に嫌な気持ちになる。でも、こんな感情はいつだって私の心の奥底に隠れていた。この感情がいつか出てくるのは知ってて、でも、自分は知らないふりをして、ただただ通りすぎるのを待っていた。でも、やっぱり小さい自分は嫌で、何も知らない自分は嫌なものだ。だから、“都心のBar“を選んだわけだし出勤時間も夜の時間帯にした。きっと、何も知らないで許されるのは今だけなんだと思う。でも、何かを始めるのに遅すぎるってことはないし、何かを始めるのに特段素晴らしい理由もいらないんだと思う。ただ、一番よくないのは、世の中のことを知った気になって相手への尊敬の気持ちを忘れてしまうことだ。何かを学ぼうとする意欲がない人は、世の中の全て掌握できると勘違いをする。そんな人ほど格好悪い人はいないものだ。

もっと大きいところに行きたい、もっと外に出たいと感じるのはなぜだろうか。仙台にいたって東京にいたってあの人になりたいなんて思う人とは誰にも出会わなかった。別に、仙台が嫌いだったわけではないし、東京だって少し嫌いぐらいで大嫌いというわけではない。ただ、きっと自分の正解なんて誰にも分からないのかもしれない。

今一番怖いのは、何も残さないこと。どのフェーズにいてもここは通過点と考えてしまう私のこの感情に終着点はあるのだろうか。みんなは、終着点を見据えて生きてますか。自分の内に巣食う不安をどのように払拭していますか。

明日、またきっと色んな人に出会うだろう。一人ひとりの文脈依存性が気になる。(←)
私のこのやり方が正しかったのだと、きっと将来そう言えるような大人になるために、今を全力で生きようと思う。